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山本勘助晴幸…内野聖陽(うちのまさあき)
武田信玄の軍師。晴信の側室、由布姫を敬慕し、二人の子・勝頼が武田家の跡継ぎになるべく画策する。川中島の戦いで自ら編み出した啄木鳥(きつつき)の戦法を上杉謙信に見破られ、命を落とす。

山本 勘助(山本菅助)(やまもと かんすけ)
明応2年(1493年)? - 永禄4年9月10日(1561年10月18日)?
戦国時代の武将。諱を晴幸、出家後道鬼斎を称したというが、信憑性はない。
武田信玄の伝説的軍師として軍談などで有名であるが、近年の研究によると実際は武田軍の伝令将校であったとされている。生没年は、『甲陽軍鑑』によると1493年~1561年という。生年は1500年説、1501年説もある。
長い間その実在を疑われていたが、『市川文書』と呼ばれる書状の発見によって、山本勘助の存在が確認された。その書状には「山本菅助」の名があった。
NHK大河ドラマでの山本勘助は、井上靖原作の小説をベースとしている。
山本勘助役⇒内野聖陽(うちのまさあき)
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出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
もともと勘助の兵法家としての名声は諸国に聞こえ、武田家の重臣板垣信方は駿河国に城取り(築城術)に通じた牢人がいると若き甲斐国主武田晴信に勘助を推挙した。
武田家の家臣となった山本勘助は、その城取りの能力を発揮していく
勘助の築城術は「山本勘助入道道鬼流兵法」と呼ばれ,山本勘助が城取りに関わった城としては
高遠城
小諸城
海津城
があげられる。
川中島の戦い・勘助の死
第四次川中島の戦い
永禄4年(1561年)謙信は1万3000の兵を率いて川中島に出陣して妻女山に入り、海津城を脅かした。
信玄も2万の兵を率いて甲府を発向し、海津城に入った。
両軍は数日に及び対峙する。軍議の席で武田家の重臣たちは決戦を主張するが、
信玄は慎重だった。信玄は勘助と馬場信春に謙信を打ち破る作戦を立案することを命じる。
勘助と信春は軍勢を二手に分けて大規模な別働隊を夜陰に乗じて密に妻女山へ接近させ、
夜明けと共に一斉に攻めさせ、驚いた上杉勢が妻女山を下りたところを
平地に布陣した本隊が挟撃して殲滅する作戦を献策した。
啄木鳥が嘴で木を叩き、驚いた虫が飛び出てきたところ喰らうことに似ていることから
後に「啄木鳥戦法」と名づけられた。
信玄はこの策を容れて、高坂昌信率いる兵1万2000の別働隊を編成して妻女山へ向かわせ、
自身は兵8000を率いて八幡原に陣をしき逃げ出してくる上杉勢を待ち受けた。
だが、軍略の天才である謙信はこの策を見抜いていた。
(炊飯する煙の様子を見て見破ったという話もある)
夜明け、高坂勢は妻女山を攻めるがもぬけの殻。
夜明けの濃霧が晴れた八幡原で、信玄と勘助は驚くべき光景を目にした。
いるはずのない上杉勢1万3000が彼らの眼前に展開していたのである。
謙信は勘助の策を出し抜き、
一切の物音を立てることを禁じて深夜に密に妻女山を下って
千曲川を渡り八幡原に布陣していた。
武田勢は上杉勢の動きに全く気がつかなかった。
謙信は信玄を討ち取るべく車懸りの陣で武田勢に猛攻をかける。
信玄はこれに抗すべく鶴翼の陣をしくが、武田勢は押しまくられ、
武田家の武将が相次いで討ち死にした。
その中に勘助がいた。甲陽軍鑑は勘助の死について
「典厩(武田信繁)殿討ち死に、諸角豊後守討死、旗本足軽大将両人、山本勘助入道道鬼討死、初鹿源五郎討死」
とのみ信繁(信玄の弟)ら戦死者と列挙して簡単に記している。
江戸時代の軍記物『武田三代軍略』によれば、
勘助は己の献策の失敗によって全軍崩壊の危機にある責に死を決意して、敵中に突入。
奮戦して13騎を倒すが、遂に討ち取られた。
『甲信越戦録』では、死を決意した勘助は僅かな家来と敵中に突入して獅子奮迅の働きをするが、
家来たちは次々に討ち死にし、
それでも勘助は満身創痍になりながらも大太刀を振るって戦い続けるが、
上杉家の猛将柿崎景家の手勢に取り囲まれ、
四方八方から槍を撃ち込まれ落馬したところを坂木磯八に首を取られている。享年69。
山本勘助の遺髪を納めた墓所(愛知県豊川市牛久保町)開基者 真木宗成(念宗法印)
勘助らの必死の防戦により信玄は謙信の猛攻を持ちこたえた。
乱戦の最中に謙信はただ一騎で手薄になった信玄の本陣に斬り込みをかけた。
馬上の謙信は床机に座った信玄に三太刀わたり斬りかかったが、
信玄は軍配をもって辛うじてこれを凌いだ。
ようやく別働隊の高坂勢が駆けつけ上杉勢の側面を衝く。
不利を悟った謙信は兵を引き、戦国時代未曾有の激戦である川中島の戦いは終わった。
この両雄の決戦を甲陽軍鑑は前半は謙信の勝ち、後半は信玄の勝ちとしている。
勘助の嫡子は天正3年(1575年)の長篠の戦いで戦死している。
『甲斐国誌』によると勘助の嫡子の名は勘蔵信共とある。
山本勘助に関する記述は、江戸時代前期成立の『甲陽軍鑑』を元にされる事が多いが、『甲陽軍鑑』に記述されている事件の年次自体史実と異なる部分がたびたび見受けられ、
また山本勘助の名および活動は(戦後に発見された市川文書を除き)
『甲陽軍鑑』以外の戦国時代から江戸時代前期の史料には見られていない。
その意味で、ここで記述した勘助の生涯の全てが『甲陽軍鑑』およびこれに影響を受けた江戸時代の軍談の作者による創作である可能性が高い
出生地
勘助は三河国宝飯郡牛窪(愛知県豊川市牛久保町)の出である。(クリックでgoogle マップへ)
『甲斐国誌』によると、勘助は駿河国富士郡山本(静岡県富士宮市山本)の吉野家に生まれ、三河国牛窪城主牧野氏の家臣大林家(または山本家)の養子に入ったとある。
他に異説が有る。駿河の富士郡に本拠を構える山本氏(勘助の先祖)が三河国八名郡賀茂荘(愛知県豊橋市賀茂町)へ移住し、賀茂荘に山本屋敷を構え、その後、明応9年(1500年)8月15日に山本光幸の三男として山本勘助晴幸が賀茂の地で誕生したと言う説である。豊橋市賀茂町にその山本屋敷の石碑がある。この説でも三河国宝飯郡牛窪(豊川市牛久保町)の牛窪城主牧野氏を頼る。
山本氏は、牧野氏・真木氏(槙氏)・野瀬氏(能勢氏)・岩瀬氏・稲垣氏と共に、東三河六騎衆の一つに数えられた、室町時代の愛知県東部の土豪であることは確実であるが、山本氏と勘助本人との関係について、諸説があり定説をみない。山本氏の系譜については、越後長岡藩の家臣団にも説明がある。
越後長岡藩文書(藩主・牧野氏)などによると越後長岡藩上席家老連綿であった山本氏は、山本勘助と同家であるとの記述が見られる。この長岡・山本氏は、山本勘助の弟の家系であると云われ、幕末に山本義路・大正・昭和の軍部に山本五十六などがいた。
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
豊川市ゆかりの有名人として、こんな人がいます。
* 山本勘助 武田信玄の軍師、三河牛久保出身。
* 真木花藻 三河牛久保城の女官。
* 山口保治 作曲家。代表作「かわいい魚屋さん」
* 長坂秀佳 「七人の女弁護士」等、推理系作品の脚本を手掛ける脚本、推理小説家
* 浦野起央 国際政治学者、日本大学名誉教授
* 市川和正 元プロ野球捕手(大洋)
* 加藤晴子 岡村孝子とあみんを結成
* 内藤尚行 元プロ野球投手(ヤクルト→ロッテ→中日)、野球解説者・タレント(ギャオス内藤)
* 中野友弘 元大相撲行司木村友一
* 城所龍磨 野球選手
* 富安風生 俳人、元逓信事務次官
* 渡辺いっけい 俳優